あの過激ショーの言い訳に使われた「多様性」
私も何も他人の批評ばかりする人間ではありません。むしろ、発する相手のひと言に本当の真意や感情がどのように含まれているのか考えたり悟ったりするのが仕事です。
「多様性」
という言葉がここ最近、メディアに踊ったのは、ある議員さんの過激ショーでの苦しい弁明から。
私の著書「男女の言い換え図鑑」(自由国民社)をお持ちの方は、私は「はじめに」の3ページでこのように書いています。
「価値観の多様性を認める現代社会では、多様な価値観に翻弄される」
先ほどの議員さんもまた、翻弄されたおひとりなんだなあと思ったものです。
過激ショーでダンサーの方の職種の理解からの多様性。一定の方々の理解は大切です。ただし、多様性はたとえ少数であっても自分とは異なる背景、考え方、価値観を持つ方々の理解ではありますが、犯罪だったり、公序良俗に違反したり、10人のうち8人が「ふさわしくない」不快と思ったところに多様性の理解はしなくて良いのです。
良識の範囲内ということです。
正直、個人の趣味で楽しむなら良かったものの、公的な会の余興に過激ショーは、理解に苦しみますよね。政治的な勉強会ではなく、遊んでいたのだと思われても仕方がないでしょう。
また、「男女共同参画推進事業」で関わっている私から言いますと、
「女性を性的な目で見ていた」
ということから、男女のあり方、男女の対等性は欠落していたと言わざるを得ません。
「多様性」をもっと理解したいのならば、まずはご自身のパートナーを理解した方がよろしいと思います。あなたのパートナーのそのひと言。理解できないことが多いでしょう。それぞれのバックグラウンド、育った環境の習慣、価値観が異なっていることに気づくはずです。
その違いを理解することが「多様性」です。